山口では、干拓のことを開作と呼ぶ。
山口市の南部 椹野川(ふしのがわ)の河口部、湾岸部に広がる開作地帯は、財政難に苦しんだ萩藩の収入確保のための公儀開作地。この地に残る遺跡の上に立ち、耕地を吹き抜ける風を感じた。
山口市名田島。
山口湾に向かって伸びる広大な田園地帯は、江戸初期から昭和初期まで続いた開拓事業によって完成した土地である。ここには「名田島新開作南蛮樋(なたじましんがいさくなんばんひ)」といい、同じく県内の「高泊開作浜五挺唐樋(たかとまりかいさくごちょうからひ)」とともに周防灘干拓遺跡として、国指定の文化財に登録される史跡がある。
ちなみに「名田島〜」のほうが"がいさく"と濁るのはタイプミスではなく、現地の人の呼称によるものである。
「南蛮樋」とは、長方形に加工した花崗岩を積み上げた堅牢な石垣の間に、海外渡来の最新技術とされたロクロによる巻き上げ方式の仕切板を設置した樋門で、樋守が1日に4度の干満の都度、板を上下させて潮止めと排水を行っていた。対して、潮の干満作用によって自然開閉する樋門のことを「唐樋」と呼ぶ。
切り揃えた石の角材を面を揃えて積み上げ、樋門の仕切り板を通す溝枠をまっすぐに掘り出す。
これが人力によるものだとは、当時の技術精度の高さに恐れ入る。
現在は沖合に山口県営干拓が完成しており、ここが樋門として機能することはないが、当時の土木技術の到達点ともいえる精緻な建造物は、近世の周防灘における萩藩の開作の実態を示す貴重な遺跡である。
ちょうどこの写真の中央部にかかる石橋が、上記の樋門である。
樋門の上より遊水地を望む。
撮影当日はあいにくの雨だったが、普段は野鳥たちの憩いの場になっているようである。
この角度からでは少し見づらいが、石橋の上に穿たれた穴は、上屋を支えるためのものだろう。
さすがにこの階段を降りる勇気はない…。
横積みや谷積みなど、場所によって異なる組み方だ。
このあたりでは、主に県内の学校給食で提供される100%県産素材を用いたパンのための小麦をはじめ、ビール用の二条麦や日本酒用の掛米、さらには大豆や路地野菜、ハウス栽培も行われており、山口県民の食を支え続けている。
秋には、一面に広がる稲穂をこの史跡の上から眺めるのもいいかもしれない。
それでは。