巌流島での宮本武蔵との戦いの直前、佐々木小次郎が弟子たちを待たせたという伝承の残るまちで、男なら誰しも一度はやったことのある「もし俺も高名な剣豪だったら…」なんて妄想を膨らませながら、潮風に吹かれて歩く。
前回の階段巡り
塩浜町から山中町へ。
このへんは初めて歩きます。
住宅地として開発されてしまって、あまり古い階段なんかは無さそうですね。
海に面した弟子待(でしまつ)町へ。
長い階段を昇っていくと…
おっす!
ちなみにこの弟子待という地名であるが、冒頭に記したとおり、小次郎が武蔵との決闘に向かう際に弟子を待たせたことに由来するという説がよく知られていいるが、実はそれ以前からこの地名だったようである。
というのも、【類聚国史(るいじゅうこくし)】によると、この地帯はもともと勅旨田(ちょくしでん)として開発、天長7年に設定された。「勅旨=テシ」と読み、またこの地域では「田=マチ」と言ったことから『テシマチ』という地名だったところに、「弟子待」の字を当てたのだと思われる。
煉瓦の階段は、やや緑に飲まれつつある。
あなたならどっちの道を選ぶ?
カーブミラーは背筋を伸ばした向日葵のよう。
さて、江の浦町へ。
江の浦といえば、三菱重工をはじめとする造船業で大いに栄えたまちであるが、もともとは林野部が広がる土地であったようだ。
暑いのはキライなはずなのに、終わりゆく夏を感じて慟哭している。
思えばこの夏、俺は何を為しただろう。
日差しはナツのそれと変わりないが、木陰に吹き抜ける秋の風の心地よさに、過ぎ行く日々の尊さを思う。
石垣の上に設えられた階段は、ゴツゴツした質感と相反する曲線美を湛える。
シダに侵食されつつある階段の途中には…
玉石タイルが貼られた何か。
よもやこんなところにお店があったとは考えにくいし、民家だろうか。
ここらへんでヘビが出てきて超怖かった。
真ん中に煉瓦の階段が設えられた坂道。
彦島なのに鉱滓煉瓦ではなく普通の赤煉瓦だし、あとから下水の配管を埋めた痕跡があることから、比較的近年に作られたものだと思われる。
よくチェックしてみると、「OSAKA YOGYO」の銘が。大阪窯業ね。
ふと側溝の中を覗いて気づく。ここにも煉瓦が使われてるじゃないか…
もしかしてこのあたりは煉瓦塀で囲まれた豪邸なんかがあった一角で、後にコンクリで補強されたのではなかろうか。しかし側溝まで煉瓦敷きとは、なんと豪奢な。
置かれたままの自転車がまた良い。
緩やかなカーブを描きながら降りてくる。
こちらはコンクリ煉瓦の階段。野花が色を添える。
どことなく漁村のような雰囲気のある階段。
ブロック塀もキレイに塗り分けられている。
斜めに積まれた煉瓦塀は張り出しており、その下の側溝を覆い隠す。
素晴らしい造作だ。
まだまだ秋にしては強めの陽光と、木々が落とす影のコントラスト。
ヘイ!(塀)、トマソン。
いつだって人生は選択を迫られる。
右か、左か。
鉱滓煉瓦と赤煉瓦が入り交じる。
さて、今回はここまで。
江の浦って広いな…。
そういえば道中で珍しげなブロック塀を見つけました。
菱形に混じって、瓢箪と扇?目出度いですねぇ。
それでは。
つづき