下関の近代建築巡り。かつて東アジア近代史における転換点となった条約を締結した地にて、昨今の国際情勢を嘆く。
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近代建築と銘打っておきながら、実のところ近代建築の定義がよくわかっていない、というかだいたい明治期以降の伝統洋風建築、というぐらいの認識なのだが、ガチガチの建築ブログではないのでモダニズム建築も扱うつもりである。そのへん緩いですがご容赦いただきたい。
まずはこちらから。
【下関市体育館】
設計:坪井善勝
竣工:1963年
丹下健三と協働して東京カテドラル聖マリア大聖堂や国立代々木競技場を建てたことでも知られる、"構造家"坪井善勝が、意匠設計も行った数少ない作品である。
HPシェルの大屋根の数学的な美しさに魅せられる。
残念ながら老朽化や新耐震基準をいった諸問題をクリアできず、整備事業が策定され、2024年に解体が決まっている。
メインアリーナも勾配のついた屋根形状がそのまま反映されており、今見ても非常に近代的に映る(そういや小さい頃から利用してるのに内部は撮影したこと無いな…)
コンクリ製のベンチの形状も素晴らしい…が、めっちゃ痛そうやな…
隣に並ぶのは梅光学院大学 スタージェスホール。ヴォーリズ建築であるから紹介したいとは思いつつも、入れる機会がほとんど無いのよね…日曜礼拝も今はやってないのかな?
過去に何度がコンサートをしたことがあるので、そのときの写真を少しだけ。カメラ持ってなかったので古いスマホ画質ですが。
【梅光学院大学 スタージェスホール】
竣工:1993年
スカルプチャードグラスの美しさを尊崇するほかない。
荘厳な空気と、心地よい残響…
外から見るとこんな感じにしか見えないので、機会があればぜひ内部を見学してみてほしい。
………
【中国労働金庫下関支店】
設計:関根要太郎ほか
竣工:1934年
不動貯金銀行下関支店として竣工。戦前の銀行建築にしては珍しい古典主義的の建築物。
2本のトスカーナ式オーダーに挟まれた玄関にはアカンサス模様が刻まれる。
シンプルかつ重厚な外観ながら、当時最先端であった免震構造を取り入れている。
免震基礎設計に岡隆一と小幡慶次が関わった。
何やらシュメール文字みたいな文様。
………
ちょっと近代建築とは違うが、唐戸エリアの建築としては見逃せないこれも紹介しておこう。
【日清講和記念館】
設計:???
竣工:1937年
1895年、日清戦争の講和が行われ、日本からは伊藤博文、陸奥宗光ら、清からは李鴻章らが出席。下関条約に調印した。
談判場であった料亭 春帆楼の敷地内に建てられる。
明治4年創業、ふぐ料理公許第一号の老舗割烹旅館としてあまりにも有名ですね。
伊藤博文がこの地に宿泊した折、時化で魚が無かったため仕方無くふぐを出したところ、あまりの旨さに感動し、豊臣秀吉の頃より続いたふぐ食の禁令を解いた(1888年)。
会議で使用された椅子やテーブルなどの調度品が公開されている。
椅子は浜離宮から御下賜されたと言われる。
そいや下関条約で思い出しましたが、渦中のあの国は…このときから全く変わってないな。臥薪嘗胆。
更に話が横道に逸れるが、すぐ隣は耳なし芳一の伝承でお馴染み、平家ゆかりの赤間神宮。
ほら。
ここまで来たらついでに紹介しとこう。
近代建築というより産業遺産。
【旧運輸省第四港湾建設局 下関機械整備事務所乾船渠跡】
設計:???
竣工:1914年
国の第一種重要港に指定され、日本最古級のコンクリート造による乾船渠(ドック)を有していた下関。ここは「旧四建ドック」と呼ばれ、日本の近代化を象徴する土木建築であった、はずなのだが…
ご覧のように埋め立てられてしまっている。なんとなく船の形をしているのはおわかりいただけると思うが…トリックアート風に階段が描かれているが、実際にその一に階段があって中に下っていくような形であった。
100年以上もの歴史を誇る文化財であったが、維持管理の困難さ(←?このへんちょいと疑問が残る)から、数年前に隣の唐戸市場の駐車場と化してしまった。
ちなみにこの一連の騒動があるまで、ぼくは存在すら知らなかった。というかそもそも県内トップクラスの観光地である唐戸市場横にあって(この写真も市場の立体駐車場屋上から撮影)、観光整備や案内はされておらず、活用法を模索したような形跡もないまま埋め立てが決定してしまった。文化財だぜ?
まぁ行政に対する不満というか、特に芸術文化方面への理解の乏しさについては言いたいことがたくさんあるが、ブログの本旨からは外れるので割愛する(といいつつ今回横道にそれてばっかりだったな…)。
さて、今回はここまで。
それでは。
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