萩往還の終点である三田尻は、元禄の頃より国内屈指の製塩地として知られ、寛永には北前船によって北海道まで販路があったという。更に御船手組〜海軍局の根拠地にもなった水運の要衝とあって大いに賑わい、明治期には遊廓も公許されたが、戦後は赤線に移行…
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