巨大な団地群の一角に突如として現れる商店街、かつて高度経済成長期の盛り上がりとともに多くの人で賑わったであろうその空間の匂いを嗅げば、見たこともないはずなのに何故か浮かび上がる昭和の原風景。
郷愁のまちを歩く。
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やってきました桐ヶ丘中央商店街。万国旗がある商店街は良い…
団地の1階部分に店舗があるゲタバキ(といってもアーケードのみがせり出しているわけだからそういう言い方も正しいか分からないが)商店街だ。
リサイクルショップの前に家庭用洗濯機が並ぶ。
日曜の夕方ということもあり、その殆どはシャッターが降りていた。といっても普段から空いているのかはわからない。
レンジファインダー機にMFの単焦点レンズを装着して撮っていたので、この時間帯に影に入ってしまうとガチッとピントが来ない。
モーグリが寝てる…
味とサービスの店・・・・・
やけに凝った駐輪場の屋根デザイン。
小さなバギーが飾られて(?)いた。
ベランダ部分が菜園のようになるのは全国共通のようだ。
うなぎ食べたいわね…
子どもたちが駆けていく。時刻は18時前。
「もうそろそろ帰らなきゃ…でももうちょっと遊んでたい…」って思ってるんだろうな。おれにもそういうキラキラした時代があったんだよ…(この時間になるとどこで飲むかそればっかり考えてる中年おじさん)
カラオケできる喫茶店か。お昼は子連れがランチ食べててさ、昼過ぎになると常連が飲みながら歌ったりするのかな。そういうイメージ。
アサヒビールの提灯、ガラスに貼られたステンドグラス風フィルム、手書きの営業時間、店先のプランターと自転車、塗装の剥がれ、雑多に貼られた政党ポスター…すべてが愛おしい。
アーバンでおしゃれな店も良いが、そこに生活感とか人情のようなものを感じさせるような店も好きだよ。
ちなみに同行者たちは思い思いに散って撮影に勤しんでいていて、別に会話がない訳では無いがアテンドされている実感はない(笑)
でもそれが心地よいのだ。共通の趣味者という類はそういうのだろう。
団地での生活、というのはいまいちピンとこない。
もちろん団地住まいの友人もいるし、小さな頃はそいつの家に行ってあちこち階段を駆け回って遊んでいたりもした。しかし大人になっていく過程で、だんだんと「公共の場ではしゃぐ子ども」を疎ましく感じ始めてしまっていて、いつの間にかいやな大人が出来上がっていたな。自分だって騒いでる側だったのに。もちろん騒ぐにしたって限度はあるし、人に迷惑をかけるのは本意ではないが、子供の無邪気さに対してまで不寛容になってしまっていることに気付く。
ぼくがイメージする「団地暮らし」は、寛容さによって成り立っていたものなのかも知れない。
学生の頃住んだマンションはセキュリティもしっかりしていたし、お隣さんとの付き合いなどなかった。実家に帰ってからも、ひと昔まえの「ご近所さん付き合い」みたいなものは徐々に薄れていくのを感じてる。もちろんそれが良いとか悪いとかそういうことではないが。
社会の変容に取り残されつつある自身の感覚が、センチメンタルな感傷を誘う。
おそらく商店街のメイン部分であろう、いくつかの棟に囲まれた広場。
この時間に来てよかったなと、何故かそんな風に思った。
少し寂しげな雰囲気があるからこそ、綺麗に手入れされた花の美しさが強調される。
やや場違いな雰囲気のあるシャッターアート。若い人たちが商店街を盛り上げようといろんなイベントなどの取り組みを行っているとも聞いた。もっともコロナ禍においてはなかなか開催が厳しいようであったが、少し落ち着きつつあるこれからはぜひ大いに期待したい。
ぐっと来るよな。
散り散りになって撮影していた同行者たちが、いつの間にかここで買い食いしていた。
台湾ちまきかぁ…ぼくも食べたくなってきた。
ん?
串ロボ!?
ん…?なんかこの酒屋さん知ってるな、と思ったら以前フォロワーさんが(角打ちに)飲みに来てたとこだ。
以前はここにおもちゃ屋さんがあって(今もあるのかもしれないけど)、レトロアーケードゲームの筐体も置かれていたらしい。
風になたびく平和の象徴。
さて、今回はここまで。
それでは。
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