源氏と平家の最後の戦いの地、壇ノ浦。
武家社会の始まりを告げた平家の滅亡…。幼き安徳天皇が入水した合戦場を歩き、霊跡を巡る。
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関門橋のすぐ下、長府 御裳(みもすそ)川公園内に建つ源義経・平知盛の像。
源平合戦最後の戦いである「壇ノ浦の戦い」が繰り広げられた場所である。
対岸にはすぐ門司港。ここは関門海峡が最も狭まり、海流がぶつかり合い強い流れの生まれる早鞆の瀬戸。
水軍の運用に長けていた平氏軍は、開戦当初こそ優勢であったが、その激しい潮の流れが反転したことにより源氏軍に圧されてゆく。
敗北を悟った二位尼は幼き安徳天皇を抱き、宝剣と神璽を携え海に身を投げる。
……驕る平家は久しからず。平家一門の滅亡である。
このとき生きながらえた平家の官女たちが身を落として遊女へとなったことが、日本の遊郭の始まりとも言われているが、ぼくは歴史/遊郭クラスタでは無いのでここらへんにしとこう。
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さてさて、この御裳川公園内には、長州砲のレプリカが設置されている。
攘夷戦にて用いられた青銅製の八十斤カノン砲は、100円を入れると音と煙が出るよ!
……うーん?🤔子供だまし…何でも無いです。
ちなみにカノン砲って、漢字だと「加農砲」って書くんだぜ。知ってた?
関門橋の真下まで移動。(さっきまでと打って変わって晴れてますが別の日です)
橋の下に並ぶ真っ赤な鳥居。
下関市民なら知らない人はいないと思うが、実際に訪れてみた人は少ないんじゃなかろうか。車停めるとこないし。
立石稲荷大明神。
京都 伏見稲荷から分御霊を勧請したとされるこの神社は、平家の軍船が眼前で沈んでいった際に神霊が留まり、以来海峡を守護したと言われる。
石垣のトンネルを潜り抜ける参道。夜間はよくここでポリスメンがスピードガン携えて張ってるよね…
この神社、登った先に御神体は無い。ではどこにあるのかというと…
海上である。
烏帽子岩と呼ばれる御神体には注連縄が掛かっており、航海の安全を司る。
毎年冬になると、「関の注連縄祭り」が開かれ、赤間神宮の宮司と漁業関係者によって注連縄の張替えが行われる。ちなみに注連縄は重さ20キロもあるらしい。
さて、あまり知られていませんが立石稲荷には奥の院があります。
GoogleMapでも表示されているのですが、場所が全然違う…
みもすそ川公園の方に戻って関門トンネル人道入り口裏手をちょっと登る。
めっちゃわかりにくいですが、こんなところに入口が。
鳥居が見えます。
団地の階段からは行けないので擁壁に沿って進みます。夏場は軽く藪漕ぎしなきゃかも。
ちょっと急ですが登っていきます。
赤い手摺に沿っていくつかの鳥居をくぐり抜けつつ進むと、小さな祠に龍神(?)様。
そしててっぺんに鎮座するのは立石大神のお社。
ちっちゃくてかわE。
先程安徳天皇と赤間神宮の話をしたので、せっかくなのでそちらも紹介。
水天門が印象的な赤間神宮。
かつては仏式の阿弥陀寺であったが、廃仏毀釈によって神社となった。住所名は現在も阿弥陀寺町。「耳なし芳一」の伝説でよく知られる。
和装のお兄さんがいい雰囲気出してますね。
水庭越しに拝殿を望む。
まるで龍宮城のような艶やかさ(行ったこと無いけど笑)。
そして境内には安徳天皇の陵墓参考地として治定される、安徳天皇阿弥陀寺陵(あみだじのみささぎ)が。日本中に安徳天皇を祀る場所は数あれど、やはりこの地より由緒あるところは他にはあるまい。
ちなみに、下関市にはもう1箇所陵墓参考地がありまして、ちょっと市街地から離れた豊田町の俵山温泉の近くに「安徳天皇西市御陵墓参考地(王居止御陵)」というのがある。
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ちなみに最寄りのバス停は、その名もズバリ「天皇様」。
やんごとない…
── 閑話休題。
他にも平家の武将たちを祀る「七盛塚」や式典場の「龍宮殿」、耳なし芳一を祀った「芳一堂」などがある。
毎年5月には、遊郭に身を落とした平家の官女たちが、安徳天皇の命日に連れ立って赤間神宮に出向き偲んだことを起源とする「先帝祭」が執り行われる。十二単衣に打掛を纏った花魁や太夫、稚児らが「外八文字」を踏みながら練り歩く上臈道中(じょうろうどうちゅう)の綺羅びやかさといったら…
読者諸賢にもぜひ一度見てほしい。
さて、今回はここまで。
あんまし猛虎って感じじゃないな…
それでは。
つづき