おなかがよわいお坊さんはあわてない

おなかを壊しやすい僧職系男子、まち歩きのススメ。

萩市 : 玉江 〜 三見の町並み

維新のまちから海沿いに沿って西へ、かつての街道を訪ねて歩く。

山間の長閑な景色に映える、美しき石橋。

前回の記事

 

川島地区から海側へ向かう。

その前にちょこっと寄り道。

萩駅

駅前には"日本鉄道の父" 井上勝の銅像が立つ。

幕末期に藩命によりイギリス留学をし(当然海外に行くなど国禁の時代である)、西洋の先進的な文化と技術を持ち帰り、日本の近代化・工業化を牽引した人物らである長州五傑(伊藤博文、遠藤謹助、山尾庸三、井上馨、井上勝)に数えられる…って語るまでもなく有名ですかね。東京駅にも銅像があります。

そいや留学のために支給された準備金を前祝いでパーッと使ってしまい、大村益次郎の執り成しでどうにかこうにか船に乗れたとか…井上薫はこの頃から浪費家だったのかな。

 

屋根に乗ったドーマーが可愛らしい擬洋風建築の駅舎は、大正14(1925)年に美祢線が延長(長門三隅〜萩)されたことに伴い建てられた。ハーフティンバーの瀟洒な佇まいは、改修を重ねつつもほぼ当時の姿を保つ。

中央入口の右側にある六角の電話ボックス(復元)は、日本で2番目に古い型式で、現在はここでしか見ることができないらしい。

 

萩駅」という名前から、いかにも中心地にありそうな雰囲気があるが、実は市街地に近いのは「東萩駅」で、乗降客数もそちらのほうが多い。

 

現在は無人駅となっている。

このホームで大きな柳行李のトランクを持って汽車を待ちたい人生だった…

あとシルクハットもね。

 

駅前の気になるタテモノたち。

 

 

さて、萩駅から少し西へ。橋本川沿いに進み、訪れたのは玉江地区。

海沿いは古くから延縄漁で栄えた漁村集落で、山手の方は夏みかんの栽培が盛んな農村地区。歴史に明るくないのでちょっとよくわかんないんだけど、漁村部は毛利藩の管轄で、農村部は吉川氏(岩国)の領地だったようだ。まぁ吉川も宗家は毛利だし…

やっぱ今でも宗家と毛利両川(小早川・吉川)は仲悪いのかね?

 

歩いていきます。急に天気が悪くなったように見えるのは、例によって撮影日が異なるからです。

 

漁村集落といえば、やっぱこの洗濯バサミがたくさんついた物干しですよね。

 

ねむい。

 

ワンチャン!もいた。

 

漁村集落の海沿いの道も好きだが、それに並行して伸びる一本中の通りが大好き。

この感覚、きっとわかってくださる方も多いハズ…!

 

そんな中通りの高台から萩城(指月城)方面を望む。

橋を渡ればすぐ堀内だ。

 

素敵な理容店に出会った。ラッキー。

 

この建物は「青年宿」といい、玉江浦で漁業に携わる15才〜25才までの男性が、寝泊まりをしながら漁業の知識と技術、礼儀や道徳を学ぶ場所であった。上組、中間組、角屋組、下組の4軒の青年宿があり、これは「中間組」。いずれも近代建築である。

かつて玉江浦のほとんどの男性は漁業に携わっていて、15才になると大船に乗り組んで漁に出るようになり、また青年宿で寝泊まりをするようになった。青年宿では、おやじと呼ばれる特に経験豊な船頭や乗組員たちにより、漁の道具の作り方をはじめ、漁船での働き方や海上で生活するための技術や知識が指導された。青年宿を退いた若い者はトモノリ(艪乗り)と呼ばれ、船の中のあらゆる仕事に携わるようになった。さらに優秀な者は船頭やチュウロウ(中老)と呼ばれる優れた乗組員になり、青年宿や船の上で若い者の指導を行うようになっていった。玉江浦ではこの繰り返しにより漁業や地域を支える人材を育てていた。

萩おたからマップ「青年宿のしくみ」より

 

これは「上組」。

青年宿では、漁業に携わる若者が50人くらい寝泊まりしていた。在宿者の名札が宿に掛けられ、1年、2年、3年…と分けられていた。5時になったら全員で掃除をして、自宅に帰って食事をとり、あとは青年宿で寝泊まりをした。海上で生きていけるよう厳しく育てられた。年上に対しては「ニイ」を付けて(タカシならタカニイ)呼んでいた。成人するまで町に出ることはできず、タバコを吸うことも許されなかった。規則が守れないと宿にいられなかった。悪さをして宿を追い出されてしまうと、女性から相手にされなくなった。青年宿には規則が書かれた「在宿者心得」が掛けられている。冬場は沖に漁に出ているため青年宿には人がいなかった。

これらの宿に、多い時には合わせて200人近くの若い者たちが寝泊まりしていた時期があった。最近は漁業に携わる人も少なくなり、20年以上前から寝泊まりする者もいなくなった。青年宿では「在宿者の心得」として宿の目的と規則、集団生活に必要な礼儀や道徳などが定められていた。昔ながらの漁業集落の生活方式が近世まで残っていた。

萩おたからマップ「青年宿の仕組み」「青年宿の生活」より

 

こちらの建物は何でしょ?気になりますねぇ。

 

さて、ちょこっと移動しよう。

三見エリアへ。

三見(さんみ)は藩政時代に市が開かれ、萩の城下町から赤間関(下関)へ通ずる幹道であった赤間関街道北浦道沿いに発展した宿駅である。市の開かれたあたりは現在でも当時の町並み、目代所跡、御高札場跡、元薬問屋などが残っているが、そちらはまたいずれ。まずはこの橋を見に来た。

 

三見橋(通称:眼鏡橋、国登文)

維新以降の近代化に向け1893年に掛けられた土橋は、1914年に石橋に改築された。 山間の谷間を大きく跨いだアーチの滑らかな曲線が美しい。

 

石橋、横から見るか下から見るか…

 

周辺の長閑な雰囲気も良い。

 

県下最大級の石橋とだけあって、なかなか見ごたえがある。

紫陽花の時期はオススメですよ。

 

ついでに近くにある廃墟。いつも通りがかるたびに気になってる。

 

「関所」とあるが、元旅館だと思われる。

お城みたい。

 

静か 眠るブルー ブルー ブルーシャトー
 
さて、今回はここまで。

それでは。
 
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