古くから海上交通の要所として栄え、多くの歴史の転換期において、その舞台となった下関。かつて隆盛を誇った街には色街がつきもの。下関もそのご多分に漏れずいくつかの遊廓や赤線があったそうな。
壇ノ浦の戦いで敗れた平家の女官らが、生活のために身を売り遊女となり、非常に格式高かったと伝えられる稲荷町遊廓。遊廓発祥の地とも言われ、高杉晋作や坂本龍馬らの維新志士たちも常連として遊んだと伝えられます。
また庶民相手であった豊前田遊廓は、現在では再開発され、飲み屋街としてネオンを輝かせています。
そして下関にあったとされる遊廓の中でも、ひときわ大きな規模を誇ったとされる新地エリア。何年か前にも探索しましたが、こういうところはいつの間にか再開発でなくなってたりするので、また改めて調査に行ってみました。


下関駅側から下関港のある竹崎町方面へ北上すると、「まるは通り」と呼ばれるエリアがあります。かつてマルハ(現マルハニチロ株式会社)の本社があったことに由来し、典型的な港町として賑わったそうです。現在は山口県唯一のソープランド街として営業を許可され、夜は怪しいネオンを放つアレなエリアです。
この通りの中でひときわ目を引く建物がこの「大阪屋」 (隣の「快楽夫人」もある意味目を引く^^; 何ちゅうネーミングセンスや…)。かの松田優作が愛し、足繁く通ったとされる食堂です。この日はたまたま店休日だったのか、コロナ禍における影響か…。空いている様子はありませんでした。
そのまま伊崎町へ。
飲み屋がいくつか連なってアーケードを形成しています。
驚くべきことにいくつかは営業中。昼間は近所の人の通り道になっていますが、夕方になると看板には明かりが灯り、中から常連さんらしき人たちの楽しそうな笑い声が…。なんと支払いにペイペイが利用できるお店もある。
少し歩みを進めると艷っぽい建物が目立ち始めます。


一見してそれとわかる非日常な建物なのに、今ではすっかり生活感が漂う日常の光景へ溶け込んでいます。
縦横に走る線、線、線…。広い間隔、狭い間隔。
細い路地が微妙に湾曲しながら交差しており、見通しは良くない。
だからこそ、こんな建物に出会ったときの衝撃が大きい。
見えないから、ワクワクする。
プレゼントを開封する前の心境と似ている。
合間にトマソンを補給しつつ新地西町方面へ。
間違いなくこれが新地における白眉。
増改築を重ねた結果、規則性を持たず散らばる色、線、素材。
ルーズではあるが、魅せるべきところを心得ている。
華こそこの世の春、色街としての矜持のようなものでしょうか。
アールの付いた庇、すべて異なる格子、型板ガラスの柔らかな印象…。現代の建物に、それら全てのディテールに意味を持たせているものがいったいどれほどあろうか。
その2へ続く…