セメントの町として知られる小野田。有帆川沿いの旦地区はかつて硫酸瓶の製造を中心とする窯業が盛んで、キズなどで売り物にならない硫酸瓶や焼酎瓶を積み上げて作った瓶垣が見られる。
窯業からセメントへ、移ろってきた産業の歴史の足あと。
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当ブログでも幾度か取り上げたとおり、山陽小野田市はセメントや化学工業を中心とした工業都市として発展してきた。特に旧小野田セメント(現太平洋セメント)は、市内を代表する企業としてよく知られるところではあるが、明治期より硫酸を製造していた旧日本舎密製造(現日産化学工業小野田工場)も挙げないわけにはいかない。
硫酸製造の副産物として大量の硫酸瓶が必要となるのだが、その多くは窯元が多く存在した目出・旦(だん)にて作られた。
目出の町並み。
通りの入口、小野田橋のそばには大きな硫酸瓶のオブジェ。
もともと良質な粘土が採れたこの地区では、江戸時代に皿や日用雑器を焼く窯が作られたことから、「皿山」と呼ばれていた。
通りを進み(残念ながら古い町並みはほぼ残っていない)、目出駅を通り過ぎて旦へ。
長州藩士であった前原一誠の旧宅跡の東に、硫酸瓶の底を表に組まれた瓶垣。
石垣や煉瓦、土塀とはまた違った雰囲気。
積み重なる◯。
さらに奥に進めば、登り窯が見られる。
「とんばり」という煉瓦造りのこの登り窯では、硫酸瓶のほか(形のよく似た)焼酎瓶も作られた。
周辺には無造作に積まれた硫酸瓶。
厚狭〜小野田〜宇部にかけてはそれほど珍しいものではなく、民家の庭先などで甕や花器として使われている光景をよく見かける。
戦後、ポリエチレンの容器が主流となり、硫酸瓶の需要は激減、蛸壺の製陶に切り替えていったものの多くの窯元が閉業してしまい、現在では1社を残すのみ。梅干しなどを入れる容器を生産しているという。
そこかしこに見られる硫酸瓶を横目に住宅街を抜け、皿山の奥へ。
曇天ではあったが、光を受けて鱗のように輝く壁面。
奥には煙突も見える。
三好邸の瓶垣。近代化産業遺産として登録されている。
およそ80年以上前に築かれたこの瓶垣は、地盤のゆるみによって瓶の割れなどが見られるようになり、20年ほど前に積み直されたものであるが、その際に一旦瓶を取り除くと、更に奥の土中にも古い瓶垣があったという。
窯業で栄えた歴史が積み重なる貴重な遺産である。
離れて見ても圧巻。
更に奥へ、窯と煙突が残る。
土から生まれたこれらはやがて、また土へと還っていくのだろうか…
実は市内にもう一箇所、大規模な瓶垣が見られるエリアがある。(実際の住所は隣の宇部市だが、感覚的には小野田エリア)
幾層にも積まれた硫酸瓶の隙間に階段。
硫酸瓶の他にも瓦などの陶器、コンクリブロックが積まれているし、奥には石垣もある。
しかし何故か旦の瓶垣に比べこちらはあまり知られていないように思う。
ぼく自身、ここは近くを通りかかった際にたまたま発見したものだ。
この瓶垣の成り立ちもよくわからない。宇部興産の関係だろうか…?
ちなみに長門長沢駅は1日あたり10人にも満たない利用者しかいないそうだ。
たぶん小野田線の中で最も利用者数が少ない。
ちょうどこの瓶垣で囲まれた場所には木造の長屋郡。社宅か何かだろうか?
綺麗に保たれていることから、今でも一部現役かと思われる。
さて、今回はここまで。
それでは。