萩城下町の町人地区。御成道沿いに栄えた商家の建築と、横丁に残る風情…。
当時の面影を色濃く残す、維新志士たちが目にした風景と、藍場が設けられた水路のある町並みを歩く。
前回の記事
前回の続きから、町人地区を歩いていく。
御成道沿い、旧久保田家住宅に向かい合って伸びる三本の横丁は、藩の豪商であった商家が並んでいたため、それぞれの屋号がつけられる。
菊屋家住宅の方に曲がれば菊屋横丁。
延々と続くなまこ壁。いかに大きな屋敷か分かるだろう。
藩の御用達であった菊屋家の向かいには、高杉晋作出生の地が。
菊屋横丁に並行して伸びるのは伊勢屋横丁。
伊勢屋は呉服商であったため、「絹機屋町」とも呼ばれていたようである。
この生け垣や土塀も昔のままの姿なのだ。
あまり大きくリノベーションしていないまま、大切に残されている建物が多いのが嬉しい。
更にもう一本並行して伸びるのは江戸屋横丁。黒板塀のシックな色合い。
ここには木戸孝允の旧宅や、高杉晋作や伊藤博文らが学んだ円政寺などが並ぶ。
さて、次は町人地区から少し離れ、前回載せた平安橋の先、平安古(ひやこ)地区に移動。
いい感じの商店。③。
敷地内には「かんきつ公園」があり、夏みかんなどの柑橘類約10種類約380本の植えられている。ちなみに夏みかんは山口県の県花です。県道のガードレールの話は以前、下記の記事でしましたね。
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土塀の内側から覗く夏みかん。これぞ萩の春の風景(夏みかんの旬は春です)。
鍵曲のある路地。
前回紹介した堀内地区のみならず、平安古にも残っている。
平安古地区のこの土塀の町並みもまた、重伝建に登録されている。
さて、また少し移動。藍場川の流れる川島地区へ。
この藍場川は平安古に通じる。かつては農業用の水路であったが、延享元年に開削して、川上から川船を通して薪炭などを運ぶのに用いられた。
現在でもこのようなハトバと呼ばれる洗い場が多く見られる。
流石に堀内や平安古に比べ新し目の宅地化が進んでいるが、市の歴史的景観保存地区に指定されているため、武家屋敷などが未だ残る。
やはり土塀と夏みかんの景色は良い。
川船を渡すため高く持ち上げられた石橋も、当時のまま残っているものがいくつもある。
大きな屋敷などは庭に水を引き込んで、専用の洗い場を設けているものもあるが、こういった共同の洗い場も見られる。
この木の台は何の用途なんだろう?
石橋はよく見ると刎橋ですね。つくづく萩藩の土木建築技術の高さに感心させられる。
川には鯉が放流されている。
明治維新後は陸軍に入り、明治31年に陸軍大臣に。明治33年には現在の拓殖大学を創設、明治34年以来、3度にわたって内閣総理大臣を務めた。
庭園内には専用のハトバ。
なんと美しい光景か。
旧湯川家屋敷。ここはぜひとも見たいと思っていたのだが、この時はコロナ禍のため休館…
石橋を渡って長屋門へ。左側の水路の引き込みは台所の洗い場になっており、回廊から石段を伝って水辺に降りる内部の美しさと言ったら…見ることが叶わなかったのが残念だが、必ず再訪したい。
手前側の張り出しの中は風呂場になっており、お湯の温度を調整するだけでなく、洗濯もできる様になっている。これも見たかった…
やっぱり水路のあるまちっていいな。
さて、今回はここまで。
それでは。
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